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マルヤス発 信州諏訪見聞録
Vol.8 多士済々!信州諏訪人物伝

多士済々!信州諏訪人物伝

地図

Ai 風土に育まれた多彩な文化人
 「諏訪地方出身の有名人といえば?」と聞かれ、すぐに「○○○○」と答えが出る人は少ないかもしれません。確かに現在、テレビやスポーツの世界で活躍し誰もが知っているような有名人はいませんし、過去を振り返っても思い浮かぶ人はあまりいません。しかし、よくよく調べてみると、いましたいました。信州諏訪地方は前回の見聞録でもご紹介した通り、古くから豊かな文化が花開いた地域ですが、この風土を背景に、多彩な文化人を数多く輩出しているのです。そして、諏訪出身ではないものの、歴史を彩った様々な人物が諏訪の地と深い関わりを持っているのです。
 そこで今回は、これらの人物にスポットを当て、その功績や関わりなどをご紹介しましょう。(本文中、敬称は略させていただきます)

武田信玄が愛用した諏訪法性の兜
武田信玄が愛用した諏訪法性の兜
Kei 戦国武将も重きを置いた諏訪の地
諏訪湖に眠る武田菱
 時は戦国、群雄割拠の時代。諏訪に境を接する甲斐の武将、武田信玄……(と講談風だと続かないので普通に)。かの有名な武田信玄(1521〜1573)は甲斐(山梨県)を平定した後、信濃(信州)攻略へと向かいます。まず手始めとして兵を進めたのが、隣接するこの諏訪地方でした。当時の諏訪地方は諏訪大社の神官でもあった諏訪氏が治めていましたが、信玄はこれをあっさりと攻略。その後、信濃全体へと勢力を伸ばし、越後の武将上杉謙信との川中島の合戦、徳川家康との三方ヶ原の戦いへと向かっていくのです。しかし、信玄にとって諏訪の地は単なる通過点ではありませんでした。信玄の諏訪大社への信仰は篤く、合戦の折には有名な「風林火山」の旗とともに「南無諏訪南宮法性上下大明神」の旗を掲げたとも言われています。また、諏訪氏の娘を娶り、その子勝頼に自分の後を継がせたのです。さらに、信玄の遺体を納めた石棺は遺言により諏訪湖に沈められたと言われるなど、その関わりは深いものでした。
 ちなみに、20年ほど前、諏訪湖の底で武田家の家紋(武田菱)の形をした何かが見つかり調査をした、という話題がありましたが、その後どうなったのでしょう? 野暮な事はせず、そのまま静かに歴史ロマンとして眠らせておいてあげたい、と思うのですが…。

Ai 江戸時代の文化と産業を支えた人々
家康の子も吉良の子もいた高島藩
 江戸時代になると諏訪は高島藩が治めるとことなり、中山道、甲州街道が通る交通の要衝として栄え、江戸幕府とのつながりも強かったと言われています。その証が松平忠輝(1592〜1683)や吉良義周(1686〜1706)の高島城への幽閉でした。松平忠輝は徳川家康の六男にして武芸全般に優れた才能を持ちながら将軍家と対立し、若くして高島藩預かりの身となった人物でした。この幽閉は92歳で亡くなるまで60年近く続きましたが、その間、俳句や茶の湯に親しみ、諏訪地方の文化の礎を築いたともいわれています。また、吉良義周はあの赤穂浪士の討ち入りで有名な吉良上野介の養子(孫)で、討ち入りの際の働きが至らなかったとして高島藩に幽閉されたのです。
 松平忠輝の墓は諏訪市の貞松院に、吉良義周の墓は同じく法華寺にあり、今でも花を手向ける人がいるそうです。
 この時代、諏訪地方は数多くの俳人を輩出しましたが、この背景には諏訪市出身の俳人河合曽良(1649〜1710)の存在があったと言われています。河合曽良は松尾芭蕉の名作「奥の細道」を生んだ奥州への旅に随行し、豊富な地誌的知識を生かしてその旅を助けた人物です。晩年は幕府の諸国巡検使として九州に派遣され、壱岐島で病に倒れたと言われています。
【儀象堂:入館料/大人800円・小中学生400円 開館時間/9:00〜17:30 休館日/2月第3週の水・木曜日】

法華寺にある吉良義周の墓
法華寺にある吉良義周の墓
農業基盤を確立した地元の名士
 江戸時代の産業面を見てみると、諏訪地方の農業、特に米作に大きな影響を与えたのが、坂本養川(1736〜1809)による堰(用水路)の開削でした。江戸時代の中期、八ヶ岳山麓では農業が発展し、数多くの新田村ができました。しかし、水不足から石高は上がらず、水利権をめぐる争いも多々起こっていたのです。田沢村(現在の茅野市)の名主としてこの現状に心を痛めていた坂本養川は、関東や関西で水利や開拓地の勉強を重ねた後、八ヶ岳山麓への堰の開発を高島藩へ願い出てました。しかし、高島藩の御家騒動などでその願いはなかなか認めてもらえず、数回にわたり請願した結果、10年以上の歳月をかけてようやく認められたのです。そして、滝之湯堰を手始めに大小15もの堰を開削し、約300haもの田を開くことに成功しました。
 これらの堰は現在でも使われているものが多いということは、いかに当時の技術力が高かったかわかりますよね。また、出身地である茅野市の八ヶ岳総合博物館には坂本養川コーナーが設置され、その功績がわかりやすく解説されています。
坂本養川が開削した大河原堰の現在の姿
坂本養川が開削した大河原堰の現在の姿

Kei 中央で活躍した歌人や出版人
島木赤彦が晩年を過ごした柿蔭山房
島木赤彦が晩年を過ごした柿蔭山房

信州風樹文庫
信州風樹文庫
アララギの代表歌人として
 近世になると、様々な分野で諏訪地方出身に人々の活躍が見られるようになります。
 まず短歌界で名を馳せたのが島木赤彦(1876〜1926)です。明治9年、現在の諏訪市に生まれた赤彦は、教職のかたわら短歌に親しみ伊藤左千夫に師事します。38歳で上京した後は短歌詩「アララギ」の編集に携わり、斎藤茂吉らとともにアララギ派を代表する歌人として活躍しました。
 現在、下諏訪町の諏訪湖博物館・赤彦記念館でその足跡が展示されているほか、晩年を過ごした家も文化財として大切に保存されています。
『湖の氷はとけてなほさむし三日月の影波にうつろふ』

日本の出版文化のパイオニア
 現在の日本文学界・出版界の礎を築き、その発展に多大な貢献をした人物といえば、諏訪市出身の岩波茂雄(1881〜1946)です。岩波という名字から判る方も多いと思いますが、そうあの岩波書店の創業者なのです。東京帝国大学を卒業後、女学校の教師を経て、1913年に神田に主として古書を扱う岩波書店を開店。翌年夏目漱石の「こゝろ」を刊行した後本格的に出版活動を展開し、1927年に「岩波文庫」を創刊します。戦中も厳しい弾圧を受けながら出版活動を続け、1946年には出版人として初の文化勲章を受章するのです。
 岩波茂雄の出身地である諏訪市中洲には戦後間もなく地元の若者達の熱意で信州風樹文庫が設立され、岩波書店の全出版物が寄贈されました。今でも岩波書店発行の全書籍を所蔵し、一般の図書館と同じように利用することができます。

Ai 文人や芸術家が次々と
お天気博士と直木賞作家
 第二次世界大戦の真っ只中、現在の気象庁の前身である中央気象台の所長として活躍し「お天気博士」と呼ばれた藤原咲平(1884〜1950)。咲平は現在の諏訪市に生まれ、東京帝国大学を卒業後中央気象台に入り、欧州留学で最新の天気予報術を学び、当時勘に頼っていた天気予報に物理学など理論的な考察を加え、気象学の基礎を確立しました。今でも、2つの台風が近づいた時の動き方の法則が「藤原の効果」と呼ばれるなど、その理論は受け継がれています。また、ドイツでグライダーの飛行を見て諏訪市の霧ヶ峰高原をその適地と知り、霧ヶ峰を日本におけるグライダー発祥の地として広めました。その縁もあり、霧ヶ峰には咲平の胸像と記念碑が建てられています。
 藤原咲平の甥でやはり中央気象台に勤務した藤原寛人(1912〜1980)は、富士山測候所の建設の際には担当課長として活躍する一方、新田次郎の名で小説を執筆。「強力伝」で直木賞を受賞したのをはじめ、「八甲田山死の彷徨」「聖職の碑」「アラスカ物語」「武田信玄」など、山岳小説や歴史小説を得意としました。映画やテレビドラマ化された作品も多く、今でも多くの人に読み継がれています。
 ちなみに、夫人の藤原ていは戦後間もなく「流れる星は生きている」がベストセラーとなった作家であり、新田次郎はこれに刺激を受けて作家になったと言われています。

霧ヶ峰は今もグライダーのメッカ
霧ヶ峰は今もグライダーのメッカ



サナトリウムが生んだ名作
 諏訪地方の文化を語るとき忘れてはならないのが、富士見町にあった富士見高原療養所(現在の富士見高原病院)です。昭和の初め結核患者のサナトリウム(療養所)として設立され、多くの文人がここで療養生活を送りました。その中で、久米正雄は「月よりの使者」、堀辰雄は「風立ちぬ」というそれぞれ療養所を舞台にした小説を書き、竹久夢二はここで静かにその生涯を閉じたのです。

童画家や多彩な彫刻家たち
 芸術の分野でも優れた芸術家を数多く輩出していますが、岡谷市出身の武井武雄(1894〜1983)もその一人です。前回の『美術館・博物館探訪』でもご紹介しましたが、絵本の挿絵を童画というジャンルに確立した芸術家です。その独特の画風は当時の子どもたちに大人気で、今でも新鮮な輝きを放つ作品は岡谷市のイルフ童画館に展示されています。
 芸術家、中でも彫刻家が多いのも諏訪地方の特徴的です。茅野市出身の矢崎虎夫、原村出身の清水多嘉示、諏訪市出身の細川宗英、岡谷市出身の武井直也など、日本の彫刻界を代表する作家を輩出しているのです。彼らの作品は、蓼科高原美術館、八ヶ岳美術館、諏訪市美術館、岡谷蚕糸博物館美術考古館などで見ることができます。
富士見高原病院の療養所時代の病室
富士見高原病院の療養所時代の病室

清水多嘉示の作品が並ぶ八ヶ岳美術館
清水多嘉示の作品が並ぶ八ヶ岳美術館
Kei 事を成す努力と熱意
 もちろん、この他にも様々な分野で活躍した、あるいは現在も活躍されている方は大勢います。さらに、名声は得られなくても、地道に一筋に打ち込み、多大な功績を残された方も大勢いることでしょう。その皆さんに共通しているのは、何かを成し遂げようという努力と熱意にほかなりません。私たちマルヤス機械もさらなる発展を目指して、一層の努力と研鑽を重ねていきたいと思っています。


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